ここで「山本周五郎」の生い立ちについて触れてみましょう。「山本周五郎」は父「清水逸太郎」と母「とく」のあいだに明治三十六年に生まれました。   本名は「清水三十六・しみずさとむ」と云い、「三十六」とは生年に因んで家主の岳父、奥脇愛五郎が命名したものです。清水家は「清水逸太郎」が繭の仲買をしていたが、祖父の「清水伊三郎」の代にせっかく構えた家を手放さなくならざるを得ない程困窮にあり、結局100円で奥脇家に買ってもらい、自分たちは奥脇家の借家に住むようになるのです。

 山本周五郎はこの奥脇家の邸内にあった七〜八戸あった長屋の一軒においてうまれました。奥脇家は昔、戸長などを努めた旧家で、土地の者は「御堂」とよんでうやまっていたそうです。山本周五郎の話では、先祖は武田氏に仕えた武将で、武田滅亡後帰農した豪族であり、築地塀跡の幅が一メートルあったと云っていますが、実はこの屋敷は家主の奥脇家のものであったようです。

 山本周五郎は相当の人間嫌いだったそうですが、時としては極めて人なつっこい一面もあったと云います。但し自分の好まない人間には断固として胸襟をひらくことはなかったそうです。「曲軒」は昭和6年1月、東京の大森の馬込文士村の住民の一員になった山本周五郎に「尾崎士郎」がつけたニックネームです。

注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」


 右の写真は元町の猫実の豊受神社です。大晦日には私もお参りに行きます。

 創建は保元2年(1157年)と伝えられており、浦安で一番古くに
お祀りされた神社です。明治のはじめまでは神明宮社と呼ばれ、
「神明さま」の愛称で地元の方に親しまれてきました。
 浦安の地は昔から水害の被害に遭うことが多く、この社も数回の再建と修繕がなされました。現在の社殿は昭和49年に建てられたものです。

 猫実は「ねこざね」と読みます。ちょっと読めませんよね!
はじめての人は「ねこみ」とか読んでしまうのですが、猫実の地名の由来についてちょっと触れておきましょう。

 随分昔の話しですが、海岸線はこのあたりだったそうです。もともと低地帯だったこともあり、度々高潮の被害に遭ってました。地元の人達はこの堤防に松の木を植え、「この根を越さぬよう!根を越さぬよう!根越さぬ!がだんだん「ねこざね」になったと云われています。

青べか紀行 P10

 「山本周五郎」と云うペンネームは元々東京・木挽町六丁目の「山本周五郎商店(屋号・きねや)」の主人、「山本周五郎」からきているそうです。清水三十六はここに丁稚奉公として住み込みで働いていましたが、「きねや」の山本周五郎は自ら洒落斎翁と称し、一風変わった独自の人生観に基づき、手堅い商売をしていました。一方、文学にも興味を持ち、「花籠」という自筆の冊子を作って小説を掲載していた文学店主でありました。

 清水三十六の第一の恩人は、横浜西前小学校の水野先生です。この水野先生は「お前は小説家になれ!」と云って非凡な三十六少年の素質を見抜いた先生です。第二の恩人は、この「山本周五郎」です。向学心に燃える三十六少年を影になり日向になりバックアップし、時には競い合うように文学に学問に励んだと云われています。山本周五郎は三十六少年をひきとることによって、彼自身の知識欲を触発されたのです。      
 実父の逸太郎よりもこの山本周五郎を心の底で繋がり会い、人間同士の触れあいが出来たと云います。山本周五郎のペンネームは「清水三十六」が編集者に宛てた表書きに、「山本周五郎方清水三十六」としたものを、何かの手違いで作者「山本周五郎」となり、そのまま山本周五郎を称するようになったようです。
 これはむしろ山本周五郎本人に対する「感謝」と「自戒」を込めてそのまま「山本周五郎」を名乗っていたのかもしれません。