こうして「蒸気河岸の先生」は青べかの持ち主になってしまうのですが、「ちっとも嬉しくはなかったし誇りがましい気持ちにもなれなかった・・」と云っています。というのも「長」をはじめとする子供達の軽蔑の目や、嘲笑の声を考えただけで「蒸気河岸の先生」は沈んだ気分になってしまったからです。
 
 買った値段が、三と五十とありますが単位が意味不明なのでいろいろ調べてみました。元漁師の「醍醐(屋号・六左右衛門)?ろくぜむと呼ぶ」さんに聞いてみたが、子供のころ五十銭(銀貨)という駄賃をもらったら、親に取り上げられてしまったと云います。又、昭和5年の東京の大工さんの一日の手間賃が三円十銭だったと云いますから、多分三と五十というのは三円五十銭のことではないかと思います。
 
 四度目に会った「三本松」ではちょっと面白い出来事がありました。『老人が舳先を掴んでゆすぶった時、舳先の尖ったところが折れてしまったのです。すると老人は自分の手にある折れた舳先の、折れたところへ唾ををつけて、元の部分と合わせ、そこを片手で押さえた?』です。                  
 実はこののち三十数年後、「青べか物語」が映画化されたのですが、現地でのロケで、この舳先を折れるように細工を頼まれたが、現在私とおつきあいをいただいている、浦安ではたった三人になってしまった船大工のお一人「宇田川 彰」さんです。現在、 「宇田川 彰」さんは土木会社の社長さんですが、兄である「宇田川信司(屋号・勘兵衛)かんべと呼ぶ」さんと昭和37年の23才までべか舟を作っていたのです。そうした舟作りの技術保存と伝承、広報を目的とした「浦安舟大工技術保存会」が存在し、紀行主もその会員であるがそれについてはいずれ述べたいと思います。
 
 芳爺さんの名前は「芳」で、夫婦っきりで三本松の裏に住み「大蝶」の倉庫番をしています。工場はやかましいので声が大きいのですが、時々空耳を使う?とは「長」から聞いた話です。この土地の漁師たちの共通の「常着」である、継ぎ接ぎだらけの洗い晒しのめくら縞の半纏に綿入れの股引を穿き、鼠色になった手ぬぐいで頬かぶりをしています。芳爺は道で会っても挨拶もしないし、棒杭か石ころでも見る様な目つきで人を見ていたそうです。 

 「青べかを買った話」の章
今回から数回にわたり「青べか物語」の一部を紹介します。

 「蒸気河岸の先生」は「青べか物語」の中で、青べかを買ったのは『四月の末か5月のはじめころ、多分5月のはじめころであったろう?』と述べていますが、実際の山本周五郎は昭和3年の8月から同4年9月にかけて浦安に滞在していたので、5月というと昭和4年の5月ということになります。しかし彼が浦安滞在中につけていた「青べか日記」に青べかが登場するのは昭和4年3月1日の項です。
 いずれにしても浦安に来てしばらくしてからの話でしょうか。「青べか物語」の最初の章に「青べかを買った話」がでてくるので、そのストーリーのあらましと主な登場人物を紹介しましょう。

 芳爺さんにはじめて「蒸気河岸の先生」が会ったのは、町を西から東に貫流する掘割が東の海に出る川口の所で、土地の人達がそのあたり一帯を漠然と「東」と呼んでいる「海水小屋」でした。二回目に会ったのは「二つ入り」の堀に沿った道を沖の弁天社のほうに歩いている時でした。三度目は蒸気河岸にある洋食屋で、土間が食堂、奥に座敷がある「根戸川亭」で、一本のビールでカツ・ライスを食べている時。四度目は、今は一本しかないが昔は三本あったので「三本松」と呼ばれている場所です。

 二度目に会った時と、四度目に会った時に「べか買わねか」と持ちかけられています。この四度目は三本松に立てかけてあった胴がふくれていて、外側が青く塗られた「べか」を、道ばたに佇んででタバコをふかしながら見ていた時でした。結局、三と五十に豚肉百匁を付けて買わされてしまったのでした。 

 こうして「私」事、蒸気河岸の先生は「青べか」の持ち主になったのです。どうやらこの「青べか」を買わされたのはまったく「買わされてしまった」のであって、はっきり言って相手が一枚も二枚も上手だったのですね。三度目に会った「根土川亭」では、芳爺が「ビールをコップ一杯」と頼んだ事から結局ビールをおごるハメになってしまった事や、「三本松」の前では極めてすばやく声を懸ける隙もない動作と言葉で、この芳爺さんに縛りあげられ抜け出す事の出来ない罠にはまってしまうからなんです。


注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」
右の写真は郷土博物館所蔵より借用


青べか紀行 P11

 左の写真はその松があったと云われている現在の場所です。
 
 かつて、旧浦安町役場に隣接したこの場所に、樹齢200年以上、高さ8m、幹の周囲2m、枝の広がりは10mにも及ぶ大きな松がありました。下の写真は大正時代に撮影された写真ですが、既にこの当時は三本松のうち二本は無くなっており、一本のみとなっています。
 
 水面をはうように伸びた下枝は、鳳凰が翼をひろげているように見え、対岸からの眺めは見事なものでした。ここを通る人は足を止めて大きな松にみとれ、簡単したとも云われています。
 しかし漁師町浦安のシンボル的なこの銘木も昭和15年(1940年)に浦安橋が開通し、町内の交通量が増えた頃から、次第に木の根が進み、2年後に枯れてしまいました。この56年後に発見された大松の一部が郷土博物館の屋外展示場の「天鉄」に展示してあります。