右の写真はもう一枚の大松の写真です。

 結局、うまうまと芳爺さんに「買わされてしまった」青べかはそのままでは乗れないので、芳爺さんの口ききで「いかづち」の船大工に修理を頼むことになりました。「いかづち」とは元船大工の勘兵衛さんに聞いたところ、江戸川をはさんだ対岸、すなわち現江戸川区の東葛西九丁目付近であり、昔は「雷」といい、今でも江戸川河畔に「雷公園」があります。この修理賃は四つであり、かなり高額な買い物であったことを「蒸気河岸の先生」は悔やむのです。修理を頼んだがなかなか舟をとりにいく気にはなれなかったと云います。それというもの「青べか」は浦粕中で知らない者はない「マヌケなぶっくれ舟」であり、なかんずく子供達には軽蔑と嘲笑の的であったからなんです。

 だから「蒸気河岸の先生」はしばらくそのままにしておいて、「感情の融和期間」を持ちたいと考えて、ホットしたとたんに芳爺さんが舟を届けにきたのです。「蒸気河岸の先生」のガッカリ振りが目に浮かぶようです。
 土手に行ってみると・・
『青べかは洗い場の杭につながれて、ゆらゆらと眠たそうに揺れていました。私の注文にもかかわらず、剥げていた青ペンキがもっと毒々しく、なにかをあざ笑いでもするように塗り直してありました。それを買ったとき、私は爺さんにペンキを剥がすように頼んだのだ』と。
 みっともないので「青ペンキを剥がすように頼んだのに?」と芳爺さんに言ったところ、『「おらそう云っただよ」「そう云っただが塗っちまっただよ、まあしょうなかんべや、剥がしても塗っても青べかは青べかだでなッ」』と一蹴されてしまい、「蒸気河岸の先生」は更に落ち込んでしまったのです。 

 その日の午後、「蒸気河岸の先生」の予期していた騒ぎが起こったのです。子供達の歓声が根戸川堤の方からあがったのです。かれらは罵り合い、笑い合い、石を投げるような音がし、囃したて、どなりあっていました。「蒸気河岸の先生」はじっと聞いて「これは関門なのだッ」と自分に云い含めたていたのです。
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 「青べかを買った話」の章

 頬かぶりをとった芳爺の顔は痩せていて小さく、太陽と潮風に焼けた頭は禿げていて灰色の髪の毛がほんの少し後頭部にあり、頬や顎にまばらな無精髭が古くなったブラシの様に一本づつ数えられるほどまばらにキラキラと銀色に光っています。眼には非人間的な鈍い冷たい光があり、殆ど唇が無いように見える薄い唇には、いつも人を小馬鹿にした様な狡猾な微笑が刻みつけられていました。尤もこれは「芳爺」に限らず、都会の客から「うまくせしめる」習慣がついているので、いつでも朴訥な表情を作り、あいそ笑いをする用意が出来ているのです。「タバコの持ち合わせはないか?」と聞き、タバコとマッチを受け取り、火をつけたあとは自分のふところにしまう癖がありました。

 「長」とは船宿「千本」の三男で、小学三年生。その土地の出来事について、篭屋の「お玉」と常にぬかりなく情報を呉れます。耳も眼も口もすばしっこく、学校の勉強の他は何事によらず仲間にヒケをとったことがありません。この並外れてすばしこい少年はもの凄いこと(男女間の機微に触れた言葉)をよく知っており、平気で言うクセがあります。蒸気河岸の先生がへどもどしたりすると「へ、へ、蒸気河岸の先生もそらっ使いだっ」位は言われてしまう程です。 
                                         

 のちに浅草へ映画を見につれてって「蒸気河岸の先生」が大変往生した話が「長と猛獣映画」で述べられています。又、30年後の後日談がありますがあとで述べましょう。 「長」の話は「青べか日記」にしばしば記述されています。昭和三年十二月一日に・・
『長太郎と十万坪の方にスケッチに行った。「長」は面白い奴だ。生涯の佳きメモリアムとなるだろう』
又、同年同月十四日に・・
『「長」は予の生活の唯一の慰みになったしまった。愛すべき子供よ』

ともあります。当時困窮して空腹を抱えて鮒を獲って煮てたべたり、土筆を採って食べたりと大変な時期に、本当に心の支えであったであろうと推測するのです。

注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」
右の写真は郷土博物館所蔵より借用


青べか紀行 P12