右の写真はその「細川の政」の菩提寺である「花蔵院」です。

 だから「高梨正三」氏は当時は「蒸気河岸の先生」がべか舟の所有者であったことを知らなかったと云っています。それを知ったのは昭和三十五年に発表された「青べか物語」を呼んで初めて知ったと云います。考えてみると「千代」夫人からたびたび経済的援助を受けていた身分で、山本周五郎はまさかべか舟を所有していたとは云えなかったのであろうかとも思えますね。

 ところで私は今、「細川流投網保存会」のメンバーで投網師の一人である「高梨(屋号・源八)げんぱち」さんとおつきあいいただいている。知ったのはゴルフ練習場で「おめえ、とばねえなッ」と声をかけられたのが最初です。  
 源八さんの打っている球をみていると良く飛ぶのです。「まあ、このおじさんは良くとばすもんだッ」と感心したものですが、後日「なるほど投網師なので腰のヒネリが素早いのだ」と納得しました。    
 
 この源八さんは、江戸末期に浦安に住み着いた「細川の政」が浦安の漁師に細川流投網を伝えた時の三人のうちの一人、「源八」の直系の四代目です。浦安では「宇田川」「高梨」「大塚」姓が多く、名字では判らないのでたいていは屋号で呼ばれており、「源八」さんもその屋号のひとつです。

 しばらく前、この直系の投網師三人が、市の教育委員会のバックアップで「細川流」のルーツを探ったことがありました。「細川」だから熊本だろうと云うことで、熊本市に行っていろいろ調べたが、熊本市には投網の技術は伝承されていなかったのです。ところが熊本から南に下った「八代」に「舟出浮」と云って、沖に舟を出し、投網で獲った魚を料理して楽しむと云う「殿様」遊びがあって、今でも「舟出浮」は市民に親しまれていると聞いたのです。
 そこで「八代」に行ってその「舟出浮」の投網師に投網を打ってもらったところ、何と舟に立つ位置、立ち方、肩にかけるかけ方、指に挟む挟み方等々、浦安の投網とまったく同じだったと云います。どうやら「細川流」のルーツは「八代」にあったようだ、と云う結論でした。

 不思議な縁だと思います。何故なら私はその「八代」から転勤で「浦安」に住み着いたからです。

 「青べかを買った話」の章

 そのうち走ってくるものがあり、『「先生いっか」「いってみせえま」「やつら青べかをぶっくらわしてるだ、あれがきこえねえだか」「おんだらが止めてもやつらききゃしねえだ、ひっくらかえすって云ってるだよ」』と例の「長」が注進にきたのである。「蒸気河岸の先生」は答えたが、『「じゃあ知らねえぞ」「おら知らねえから、いいか」』と「長」は走り去った。
 しばらくして静かになったので、「蒸気河岸の先生」は様子をみるため土手までいってみたら、何と青べかはそこには無かったのである。子供達が流してしまったのであるが、「蒸気河岸の先生」は『「やりゃあがったな」と思ったが、さばさばしたというのは嘘になる』と云っている。

 
 というのも、当時「蒸気河岸の先生」は中外商業新報(現日本経済新聞社)の家庭部記者で、東京通定期船の大株主でもあった浦安の大地主、「高品」さんの紹介で少女雑誌に少女小説を書かせて貰っていたが、この稿料は一回「五」すなわち五円であった。従って、青べかの代金三と五十と修理代金四つ、つまり七円五十銭は「蒸気河岸の先生」にとっては、たいまいな代価であったからです。
 
 ところで、この「高品」さんとは「高梨正三」氏のことであり、出会いは〈その9〉で述べました。奥様は「千代」さんといい、青べか物語にしばしば登場する。「蒸気河岸の先生」の浦安時代はそれは困窮していた時代で、時々「千代」さんにお呼ばれして食事をさせてもらったり、経済的援助を受けたりしていたことは前にも述べました。この「千代」さんは「青べか物語」の中では「きん」さんと云われている。ちなみに昭和21年に再婚した山本周五郎の奥様の名は「きん」さんである。                          

 この高梨家は浦安の当代島では名家であり、当時は深い樹立に囲まれた一町四方もある邸宅で、浦安町の開拓者の一人と云われている旧家でもありました。この「高梨正三」氏の印象では、「蒸気河岸の先生」すなわち山本周五郎は正直で明朗な人なつっこい若者だったと云っています。感心なくらいいつも本を読み、勉強していたからこの青年は必ずモノになる?と信じていたそうです。又、相当貧乏していたとも云ってます。

注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」

青べか紀行 P13