青べか紀行 P15

境川の東水門の上流で「赤べか」を発見しました。多分、青べかはこんな感じで青く塗られていたのでしょうね!

 ところでこのべか舟は現在浦安舟大工技術保存会の皆さんが再現しています。しばらくこの浦安舟大工技術保存会の話をして「青べか紀行」を終え、キーボードから手をはなしたいと思います。現在、浦安舟大工保存会は新しく出来た郷土博物館を拠点として、「べか舟」「投網舟」「鵜縄舟」等々の再現をしています。もちろん実際に海で使用出来る舟です。  

 その他地元の小中学校の生徒へのべか舟模型作り指導、昔の生活体験、昔の遊び等を教えたりしています。ボランティアですから時間のある時にお手伝いするすることが基本ですが、彼らはほぼ毎日(月曜日は休館日)郷土博物館に出勤?しています。たいがいの会員は私よりず〜っと年上で、ここでのボランティアを生き甲斐としているようですね。          

 この郷土博物館は「ハンズオン型」と云われる博物館で、一般的には展示が主体ですが、浦安の郷土博物館は目玉として来館者参加型、つまりここ(昭和27年当時の浦安の町並みを再現)に来るとおじさんおばさんが貝剥きをしたり、海苔を梳いたり、舟を作ったり、漁具を作ったり、舟を操ったりしているのです。そこに来館者も参加出来、一緒に楽しめると云う博物館なんです。 

 是非皆さんも一度訪ねていただきたいと思います。

 長い間、「青べか紀行」に目を通していただいてありがとうございました。こうした紀行文を書くのは初めてのことで、表現等お目触りの点がありましたことを陳謝し、又いろいろご指導いただいた関係者に御礼をしてキーボードから離れます。
      
      ・・・・・本当にありがとうございました・・・・・



 結局、「蒸気河岸の先生」は外来者のひとりであり、通過者のひとりであったに過ぎなかったのかもしれない。
『外来者は通り過ぎる影でしかなく、従って彼らの記憶の中も通り抜けてしまうのでしょう』と後日「蒸気河岸の先生」は述懐している。

 『私は初めから終わりまで、長の名を呼び捨てにしていたし、長もしごく当たり前のように受け入れていた。
数えてみると、私が浦粕を去ってからまる三十年になる。長も四十一才、子供も五人いるということだ。                               その彼を「長」と呼び、彼が「おう」と答える時、私の心には三十年という時間の距離はなかった。にもかかわらず、彼には私の記憶がないのだ。青べかのことを訊いてみたが、それもごくかすかに覚えている程度とみえ、「なにしろ古いことだからねえっ」と云って話しをそらしてしまった。したがって、題名の「青べか」がどうなったかは、ついに不明のままこの物語を終わらなければならない』
と「青ベカ物語」は終わっています。

 以上が「青べか物語」を読み、自分の眼で見、聞いて、参考本を調べて書き上げた「青べか紀行」です。
いかがだったでしょうか。ご意見等をいただきたいと思っています。

 今の浦安は大きく変貌を遂げ、往事の面影を見いだすことは困難です。が「境川」の上流、つまり江戸川の水門近くでは何となく昔の面影を十分残していますので是非訪ねていただきたいと思います。

注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」