『十三銭ある中から八銭で揚げ物を買って五銭で銭湯に入った。今は無一文だ。腹が減ってたまらぬから雨の中を高梨の家へ金を借りにいったらもう寝ていた?四月十八日』

『高梨から金を借りた。感謝している。細君にも高梨にも感謝している。今日は飢えた一日だった?四月二十四日』

 
 
こうして「青べか日記」から、山本周五郎は「高梨」氏夫妻に経済的援助を受けたり、夕食をご馳走になったり、僅かな稿料で飢えをしのいだり、「長」と土筆をとって食べたりと、とにかく東京市の募集した児童映画脚本に当選し、賞金五百円を得て北海道へ二旬の大尽旅行した他は常に困窮していた様子を伺うことが出来ます。

 と云うのも浦安に転居した時に努めていた「日本魂」社を今で云うリストラされたことも大きな一因であったからでした。浦安に移ってからは前にも紹介しましたが、通船で東京まで通勤する訳ですから普通でも二時間半かかり、シケや台風になると欠勤してしまうと云うことが日常茶飯事であったらしいのです。
 まして昭和三年は不況の真っただ中、銀行の取り付け騒ぎがあったりで「日本魂」社も部数も減り、人員整理の対象にされた?が本当のところかもしれません。

 山本周五郎は当時軽い肺浸潤を患っていたと云います。微熱が出たり、寝汗をかいたりしていたようです。多分この自然ときれいな空気と新鮮な魚介類とで恵まれた浦安で、この不治の病と云われた呼吸器疾患を治そうと云う気持ちがなかった訳でもないと思えます。
 しかし山本周五郎はこの浦安では相当に貧乏し、困窮するのです。「青べか日記」によると、しばしば「高梨」氏の世話になっていることがわかます。  

 
『昨夜は高梨をたずねて時間を過ごした。細君が鶏卵を呉れた?九月三日』
『夜は高梨の家で過ごした。栗と葡萄とをご馳走になった?九月六日』
『夕食は高梨の家で食べた。鰯の焼いたのと、つみれ入れの汁物と、乾物とで 茶漬けを食べた。久しぶりにうまかった。食後の葡萄もうまかった?十月十三日』
『今夜も高梨の家で夕食を呼ばれた。あいなめと云う小魚と栗と新しい野菜の漬け物で茶漬けをうまく食べた?十月十四日』・・

と、昭和三年はともかく年末まで「高梨」家で度々ごちそうになっています。 が、年が明けた昭和四年の二月頃からいよいよ金銭的に行き詰まってきたようです。

『昨日は東京から本屋を招いて蔵書を売った。八十円の金が手に入った?二月二日』
『金が段々窮乏して来た。当分は玄米と芋で過ごすつもり?二月十三日』
『金がまったく無くなった?二月十四日』
『中外商業新報から僅かな稿料が入って二、三日しのぎがついた?二月十六日』
『長が釣った鮒を味噌煮にして食べた?二月十七日』
『高梨で金を借りた?二月十九日』
『昼間べか舟で「長」と妙見島へ渡り、土筆んぼを摘んだ?四月四日』
『土筆を灰水に一夜漬けてあくを抜き、塩ひとつまみの熱湯で茹で、砂糖味噌にまぶして食べた?四月五日』
『今日は堀の薬師様の縁日であった。高梨夫妻が誘いにきたので出掛けた』

 
と、いよいよ金に困ってくる様子が日記に克明に記されていて、まるで目に浮かぶようですね!
 それにしてもここでも「長」との親密な関係がみられます。

 

注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」

上の写真は元町の猫実の裏通りです。左右弁財天の近くですが、元町にはまだまだこんな懐かしい風景がみられます。

青べか紀行 P8