こうした経済事情逼迫の影響か、山本周五郎は下宿先を五回も替えているのです。
最初の下宿先から「柳の家」と名付けた二番目の家に移ったのが昭和三年九月三十日、しかしここは思わぬハプニングと云うか建具職人と同居するハメになってしまい、一ケ月後に「吉野屋」?(「青べか物語」では「千本」として登場)に転居するのです。
この時は「高梨」氏と二〜三人の船員が手伝ってくれて引っ越しを済ましている。しかしここでも下宿料は滞り気味で、家婦に剃刀や爪切りを借りるのを拒まれたり、食べ物を放り投げられたりのいやな思いをした挙げ句、九十九日を経て昭和四年二月七日に「茫屋」に移ります。 この「茫屋」には九十八日間過ごし、昭和四年五月十六日に「土手下の家」と云われた現在の浦安橋の土提のすぐ下の家に移っています。
 とまあ、経済的には相当困窮してはいたものの、山本周五郎は決して挫けず創作活動を続けたり、土地の人たちとの交流を深めていたのでした。 
 
 この「茫屋」移って間もなく、山本周五郎は本当に浦安を離れようとしたので、わざわざ「高梨」氏の自宅で船員二〜三人を交えて送別会を開いてくれたそうですが、山本周五郎は大はしゃぎで踊ったり歌ったりしていたそうです。 が、結局よほどうれしかったのか東京へ帰るのを諦め、さらに二〜三ケ月浦安に滞在するようになるのです。
 そして「青べか日記」は九月二十二日に幕が閉じられています。その最後の日の日記は次のように書いてあります。

『凡ての計画は破れた。余は浦安を川獺のように逃げる、多くの嘲笑が余の背中に投げられるだろう。午後から雨催いの空を気遣いながら土提に沿って下り、沖の弁天社から堀、江川、猫実と歩き回った、川や堀では子供達が鮒を掬っていた、河で沙魚を釣る人が並んでいた、稲は熟れ、田畝には海苔乾架が造られつつある、心愉しくひと回りして来た、お名残りである』


・・と浦安脱出の山本周五郎の身辺を克明に描写しています。

 
「青べか物語」の「おわりに」の章の書き出しに山本周五郎は次のように記しています。                              

『私は浦粕から逃げ出した。その土地の生活にも飽きたが、それ以上に、こんな田舎にいてはだめだ、ということを悟ったからであった。私は町の隅ずみを歩いた。沖の百万坪、白い煙霧に包まれている石灰工場、由爺さんの住居に近い三本松、消防小屋、堀南から中堀橋を渡り、堀に沿った提の左側に、養魚場の広い池を眺めながら、東の海水浴場にもいってみた。こうして土地や風景には別れを告げたけれども、東京へ去ることは誰にも云わなかった。高品さん夫婦にさえ話さず、売り残って半ば不用の本の詰まった四つの本箱や、机や、やぶれた布団や穴だらけの蚊屋。よごれたまま押入に突っ込んである下衣や足袋類。その他がらくた一切をそのままにして??書き上げた幾編かの原稿と、材料ノートと、スケッチ・ブック五冊とペンを持っただけで、蒸気にも乗らず、歩いて町から脱出した。いちども後ろを見なかった。私にとって、浦粕町はもう過去のものであった。前方だけに向かっていた』

と、いつも読む度に紀行主の心は熱くなり胸打たれてしまうのです。

注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」


 上の写真は元町の猫実の左右弁財天です。大晦日には私もお参りに行きます。

青べか紀行 P9

 山本周五郎は浦安を逃げるように去りましたが、誰にも黙って出て行ったのでした。もちろんお世話になった「高梨」氏にも黙ってです。小林久邇典氏の「山本周五郎・青春時代」にその「高梨」氏の話として紹介されています。その話によると『四、五日誰も気づかなかったのですが、いつも電気がつきっぱなしであったために調べてみると蔵書もそのままで、小生が後始末をしたことを覚えています』とあります。
 誰にも黙って浦安を離れた山本周五郎の心の中を推し量ることは今となっては出来ませんが、半面長い人生の中の多感な時期に、一年数ヶ月この浦安に住み暮らし、時には滑稽で時には卑猥であるが底抜けに楽天的でたくましい浦安の人々の生活をつぶさに見聞きし、それを「青べか日記」として記し、その体験から学び得た事実は、彼の以降の生き方に、創作活動に著書に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くありません。