青べか紀行 P2

 「西の根戸川と東の海を通じる堀割が、この町を貫流していました。蒸気河岸とこの堀に沿って、釣り船屋が並び、洋食屋、ごったく屋、地方銀行の出張所、三等郵便局、巡査駐在所、消防署(と言っても旧式な手押しポンプの入っている車庫だけであったが?)、そして町役場などがあった」  

 「西の根戸川」とは江戸川のことで、「東の海に通じる堀割」とは「境川」のことです。実は浦安はこの「境川」に沿って堀江、猫実、当代島と三つの集落が発達してきたのです。昭和の初期と云えば、未だ水道が出来ておらず、住民はこの「境川」の水を台所の水瓶に蓄えておき、必要に応じて使用していました。つまり住民の日常生活に必要な用水一切を賄っていたのです。  
 只、夏は流石に汚れがひどくなるので、「水屋」が江戸川上流の篠崎付近の水を汲んできて売っていたそうです。このように長い間住民は「境川」の水を飲料水としてきましたが、川で洗濯したり、汚物を流したりするので、ひとたび伝染病が発生するとしばしば全町に蔓延したと云います。たびたび「青べか物語」の中に出てくる「ごったく屋」とは漢字で書くと「狐宅屋」と書き、料理屋のことです。何故、「狐宅屋」なのかは不明です。

江戸川の対岸から蒸気河岸を見た風景

 今はこんな状態になってしまっていますが、昔は水がきれいで、泳いだりこの水を炊事につかったりしていたそうです。

江戸川の水門のすぐ下の風景です。

 水も、流れも、周りの風景もすっかり変わってしまいました。

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 「交通は乗り合いバスと蒸気船があるが、多くは蒸気船を利用し、〈通船〉と呼ばれる二つの船会社が運行していた。これらの発着するところを「蒸気河岸」と呼び、隣り合っている両桟橋の前にそれぞれの切符売り場があった」

 この通船とは「高橋」(現在の江東区高橋にある水上バス高橋乗船場)から行徳行きの蒸気船のことを云い、浦安はその中継地でした。「高橋」を出た通船は小名木川を東に向かい、いったん荒川に出、葛西の新川を通過して江戸川に出ました。二時間半かかったと云います。ですから、当時浦安から浅草まで行く場合は、この逆を辿り「高橋」で乗り換えて隅田川から浅草に行ったと云います。 
 その他の交通手段としては、錦糸町から城東電車で今井に行き、渡船で江戸川を渡って浦安に向かう方法がありました。いずれにしても当時の浦安は比較的東京に近い場所にありながら、行き来のきわめて不便な東京からポツンと離れた別天地だったのでしょう。
又、「蒸気河岸」とは現在の猫実五丁目の江戸川河畔で、地下鉄東西線で葛西から江戸川を通過して浦安に入って直ぐ真下に見える河畔です。
 彼、「山本周五郎」はこの「蒸気河岸」の近辺とか、その「蒸気河岸」にある「船宿千本」に下宿していましたので、当時は「蒸気河岸の先生」と呼ばれていたのです。

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注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」