『その裏には貧しい漁夫や、貝をとるための長い柄のついた竹籠を作る者や、その日によって雇われ先の変わる、つまり舟を漕ぐことも知らず、力仕事の他には能のない人達の長屋、土地の言葉で言う「ぶっくれ小屋」なるものがごちゃごちゃと詰め合っていた』

 「貝をとるための長い柄のついて竹籠」とは「腰たぶ漁」や「大巻漁」で使用する「腰たぶ籠」や「大巻籠」のことを云ってます。「腰たぶ漁」とは浅瀬で漁師が海に入り、籠を腰で引きながら「アサリ」や「ハマグリ」を獲る漁です。「大巻漁」はいくぶん深い漁場で舟の上から行う貝獲り漁であり、当時豊富に湧いた(浦安ではたくさん貝が獲れることをそう言う)貝を獲るための漁法なんです。
 今でも「浦安舟大工技術保存会」の会長で元船大工の宇田川彰さん達が仲間とこの漁をしています。もちろん自分たちが食べる分しか捕りませんが、時々お裾分けをいただきます。      
 漁師は自分の籠は自分で作ったそうで、その作り方で漁獲量に影響したと言い、自分でつくれない漁師は上手な漁師に依頼したり、専門で作る職人に頼んで作ってもらったそうです。という話を元漁師の宇田川 博(屋号・山桐)さんから聞きました。もちろん山桐さんは自分で作っていましたし、「浦安舟大工技術保存会」のページの籠の模型も作っています。

 と言う具合に、「青べか物語」の中には色々面白い話が詰まっていて、私の心を掴んで離さないのです。

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市役所の近くの東水門のすぐ下の風景です。
汚れてますね〜!

江川橋から上流を見た風景
これはゆりかもめかな?

 山本周五郎は明治36年6月22日、山梨県で生まれました。本名は「清水三十六(さとむ)」と云います。家業は繭の仲買商でしたが、明治40年の山津波で祖父母を失い、三十六少年は母とともに上京しました。 そして横浜に移住し、少年期を過ごしました。小学校卒業後、東京の山本周五郎質店で住み込みとして働きます。
 三十六少年はそこの主人から強い影響を受け、のちにその主人の名が周五郎のペンネームになりました。山本周五郎の文壇出世作は関東大震災で被災し、関西に逃れたときの体験を描いた「須磨寺付近」です。
 その後、山本周五郎は前々号で述べたように、昭和3年の8月から同4年9月まで浦安で過ごすのです。

 浦安に来る前の山本周五郎は、桜橋の近くにあって青年向きの啓蒙雑誌「日本魂」編集部に所属していました。彼が入社した時、編集部は7〜8人の陣容で、当時彼は三十五円の月給を得ていました。そこへ不景気が来、雑誌の会員は激減し発行部数は落ちるばかりであったと云います。         
 周五郎の恩人である「高品夫妻」、彼が下宿していた船宿「千本」の息子である「長」少年との触れあい、貧乏だが素朴で人情に生きる町民の生活を、小説的作為を削りとって本当の小説のエッセンスだけを抽出して書き上げたのが「青べか物語」です。 

青べか紀行 P3

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注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」


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