前に「小名木川」の紹介がありました。この小名木川は私の好きな「剣客商売」「鬼平犯科帳」にもしばしば登場します。「剣客商売・陽炎の男」深川十万坪編にも登場するのでちょっと紹介したい。            
『秋山小兵衛が妻・おはるに舟を漕がせ深川の八幡様におまいりに行くのだが「おはるよ、新大橋をくぐって、ほれ、万年橋の柾木稲荷の船着き場へ着けるがいいな」         
「あいよう」。
                                     
 
大川が、新大橋の先から東へ流れ入る小名木川は川幅二十間。その川口に万年橋が架かっている。この川はむかしむかし、徳川家康が江戸入国と同時に通じさせたもので、天正十八年に完成し長さは一里十町。千葉の行徳の塩を江戸に運ぶため、掘り通させたものだそうな』
とあります。          

 この小名木川は小名木四郎兵衛に命じて作ったところから、「小名木川」と命名されたそうです。万年橋は隅田川から小名木川に入ってすぐの橋です。
 その柾木稲荷は文久二年版の江戸切絵図「本所深川絵図」に小さく「マサキイナリ」と記してあります。境内に柾の大木があったのでそう名付けられたそうな。私も一度訪ねたことがありますが、今は民家に囲まれてひっそりと祀られています。皆さんも興味があれば訪ねてみてください。 
 同じく前々号で紹介した「高橋」はそこから清洲通りの橋をくぐり、東に約600メートル位行ったところにあります。

 ところで「青べか紀行 その2」で「ごったく屋」について、何故そう呼ぶのかわからない?と述べましたが、わかったのでここに紹介します。
 漁師町の気質柄、浦安では飲食店がにぎわっていましたが、若者の歓楽場であった「ごったく屋」はの名称は、ある料理屋が女中の厚化粧を風刺し、化ける者(狐)のいるところというので、「狐宅屋」?つまり「こたくや」と軒下に記したのが訛って「ごったく屋」と一般化したと云います。

  

大三角線の境川に架かっている江川橋で見つけました。

町の娯楽の中心地であった「浦安亭」跡はアパートになっていました。

 さて、本文に戻りましょう。
 
『町の中心部は「堀南」と呼ばれ、「四丁目」といわれる洋食屋や、「浦粕亭」という寄席や、雑貨洋品店、理髪店、銭湯、「山口屋」という本当の意味の料理屋、これはもっぱら町の旦那方用でありますが、その他の田舎町によく見られる旅籠宿や小商いの店などが軒を列ねていた。
その南側の裏にやはり「ごったく屋」の一角があり、たった一軒の芝居小屋と、
ときたま仮設劇場のかかる空き地がある、というぐあいであった』

 この「堀南」とは現在の「堀江」のことを指しているのであって、しばらく前テレビで「たけし」が取り上げて話題になった「フラワー通り」がその中心であります。今でも小さな店が数店みられるが往事の面影もありません。又、「浦粕亭」は当時は「浦安亭」といって、町の娯楽の発信地でもあったようです。
 この「浦安亭」は当時は大変な盛況で、宵越しの金を持たない漁師の気質から相当に賑わったそうです。

 但し、芸にはうるさくて、出し物が詰まらないと芸人に背中を見せて寝てしまったり、
芸人を引き吊り降ろしてしまい自分が舞台にあがったりして、まっ、芸人にとっては大変な土地柄であったと聞きます。芸人は銚子と船橋と浦安でうけないと東京に出られなかったというが、それだけ「芸」には肥えていた土地柄だったのだろう。現在でも“浦安は思い出したくもない!”といってはばからない芸人もいると聞きます。

 そう云えば歌手の二葉百合子は74歳ですが、今年芸能生活70周年を迎えました。彼女はこの浦安亭にも出演していたそうです。
 その「浦安亭」は中心部から東にいったところにありましたが、現在そこはアパートになっていました。

青べか紀行 P4

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注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」


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