もっとも、山本周五郎にとっての浦安行は、思いつきであったにしても縁もゆかりも無い土地ではなかったようです。と云うのも山本周五郎が文学青年であった当時、横浜の「石井信次」氏を通じて通じ読売新聞記者であった「小野金次郎」氏と知り合い、更に小野氏は中外商業新報(現日本経済新聞)の記者で「足立 忠」氏を山本周五郎に引き合わせたと云います。そしてこの「足立 忠」氏を通じて中外商業新報家庭部の「高梨正三」氏を知るのです。
 従って、山本周五郎が浦安に来てから「高梨正三」氏と知り合ったのでなく、浦安も同氏も意識の下にあったようですね。
 
 山本周五郎に関する本が多々あるが、『年譜によると作者(山本周五郎)は大正十五年の春から、昭和四年までの三年間を?』と表している本もあり、又1980年、東京新聞出版局発行「青べか慕情」の木村久邇典氏によると・・・『「青べか日記」によれば、山本さんの浦安生活は昭和三年八月から翌四年の九月下旬まで、正味一年一〜二ヶ月に過ぎなかったようだ』とし、それがどうして『あしかけ三年になった』のかについては、『その一年間という時間こそ、山本さんの生涯の中で、最も“生きる”ことに懸命だった期間に当たっていたからではないかと思うのだ』と解説しています。
 
 更に、『彼は、わずか一年数ヶ月の浦安生活で、実に多くの刺激的な人生を実見したし?、文字通り三度の食事にも事欠く窮乏のどん底にあえぐという経験をこの浦安で舐めたのである?それにもまして、山本さんはこの漁師町の、人生の底辺で、時に滑稽で卑猥であるが、底抜けに楽天的でたくましく、素朴で純情に生きる多くの人間を見た』。
 そうしたことが『わずか一年間が、あしかけ三年間に拡大されて、山本さんの胸奥にデンと位置を占めたとしても、なんの不思議はない』と解説しています。

 『百万坪から眺めると、浦粕町がどんなに小さく心ぼそげであるか、ということがよくわかる。それは荒れた平野の一部にひらべったく密集した、一かたまりの、廃滅しかかっている部落という感じで、貝の缶詰工場の煙突から立ちのぼる煙と、石灰工場の建物全体をつつんで、絶えず
舞い上がっている雪白の煙の他には、動くものも見えず物音も聞こえず、そこに人が生活しているとは信じがたいように思えるくらいであった。  私はその町の人から「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、あしかけ三年あまり独りで住んでいた』


 と、「青べか物語」の「はじめに」の章は終わっています。 
この章の最後は、私の思い出とだぶって感じ、何となく目に浮かぶ情景でした。私の生まれは福島であり、小さなころ他の悪童達と町からだいぶ離れて遊び、帰りがけにその町の方を見るとリンゴ畑の向こうに、『ひらべったく密集した、一かたまりの、廃滅しかかっている部落という感じで?』町がみえたものでした。
そして
 『私はその町の人から「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、あしかけ三年あまり独りで住んでいた』

とありますが、前にも記したように、山本周五郎は昭和三年の八月から同四年の九月まで過ごすのです。 その根拠として当時山本周五郎が「青べか日記」をつけていた内容では、昭和三年の八月十二日から彼の日記が始まっているからなんです。がその日は・・

 『今日は堀の薬師様の縁日であった。高梨夫妻が誘いにきたので出掛けた』

 と突然「高梨夫妻」の話が登場することから、この「青べか日記」は浦安に住んで、しばらくしてからつけはじめたのだろうかという疑問が私の心に生じたのです。

注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
       木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
         同     「青ベカ慕情」
         同     「山本周五郎・青春時代」


右の写真は市役所に近い東水門です。以前はここが境川の河口でした。一部写真の左側に市民会館が見えまする。ですからこの左右がむかしの海岸線なんですねっ。

 ここから江川橋までの上流の水辺は整備されてきれいになっています。水門の手前左側はちょっと芦が生えているようです。

青べか紀行 P7