最近の宇田川彰さん

勘兵衛さんこと宇田川信治さん(左)と生井俊夫さん(右)

 

 
 
 昭和18年、信治さんが小学校6年生の時に養父の惣治郎が亡くなったので家業を継ぐことを決心したと云ってます。因みに勘兵衛さんは昭和4年に浦安町猫実に生まれました。この年は山本周五郎が浦安で非常に困窮しながら「長」と云う心の支えとなった少年と、このひなびた漁師町に転々と下宿先を変えながら生活していた年でもあります。  
 
 勘兵衛さんが家業を継ぐ決意をした時は、既に養父は世になく、勘兵衛さんは浦安造船に少年工として入社したのです。浦安造船に入ってまずやったのは、ボイラーの火をつけたりする雑役からでした。
 大きな船の外板(木材)は堅くて簡単に曲がらないため、板を蒸し箱に入れて柔かくしなければなりません。最初は、この蒸し箱のボイラーの火の番から行いました。またキリン(木をはぎ合わせるときに仮止めとして木と木を締めつける道具)を締めたり、職場内を行ったり来たりする雑役から始まりました。

 浦安造船に入社して1年くらい経った頃、舘山で開催された造船講習会に参加しました。講習会は千葉県内の造船所から人が集まり、2カ月間寮生活で行われました。講習には浦安造船から10人ほど参加しました。生徒のなかには50歳ほどの年配者から、若い人まで様々であったと云います。
 講習では実技と学科があり、実技ではカンナの研ぎ方など道具の使用方法を大船大工(大きな船を作る船大工)が講師となって教えていました。カンナの研ぎ方では、研ぎ終わったカンナを講師に見せて「これはいい、これは悪い」などと指導されました。

 

 普通、何か製作する時は図面を書きますが、舟大工は板の切れ端に簡単な「ふなずめん」を1/10の縮尺で書きます。ですがべか舟のふなずめんは舟大工の頭に入っているのでわざわざ書くことはそうは無いそうです。勘兵衛さんが弟子で働いていたころは、親方はふなずめんを見せてくれることはなかったと云います。
 親方は板にふなずめんを書いて確認すると、すぐに鉋をかけてしまい絶対に弟子には見せなかったそうです。そこで勘兵衛さんは製作途中の現物を見てふなずめんを密かに書いたそうです。つまり技術は教わるものではなく、
盗むものであることを悟ったと云っています。
 資料によると昭和17年(紀行主の生年)当時、浦安には6軒の舟大工がありました。 「植草」・「勘兵衛」・「治郎大工」・「ふなため」・「渡辺」・「柳町」の6軒です。
 
 ここでは勘兵衛について紹介しましょう。屋号は代々勘兵衛と呼ばれていました。初代は「宇田川吉太郎」と云い、浦安の猫実で開業しました。二代目は「宇田川惣治郎」であり、昭和18年に亡くなりました。
 三代目が現勘兵衛さんで、昭和29年に独立し昭和47年まで舟大工を続けたそうです。この二代目の宇田川惣治郎・たね夫妻には子が無く、この信治さんと弟の彰さんとで「平林家」から養子縁組して宇田川家にきました。ここで皆さんはひとつのことに気がついたでしょうか。つまり、初代は「吉太郎」、二代目は「惣治郎」、三代目は「信治」であり、どこにも「勘兵衛」は出てきません。そこで紀行主は勘兵衛さんに聞いてみました。
 「よく気がついたねっ」と勘兵衛さんに云われたものです。
 つまりこういう訳です。この「勘兵衛」は江戸時代にさかのぼり、当時となりの行徳で塩を作っていた人なんです。そして古地図に「かんべしょだ」、つまり「勘兵衛塩田」とまで記されているそうです。 
 

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浦安舟大工技術保存会 P3 

参考文献:1993年 浦安市教育委員会発行「浦安のベカ舟」