カンナを研ぐ宇田川彰さん。頼まれて知人の包丁等を研ぐ場合がありますが、何と云っても大工道具が大事です。自分の道具は自分で・・が基本です。

当時、舟の機関長をしていた長島さんです。今は焼き玉エンジンの運転実演をしていますが、こうしてベカ舟の模型作りもしています。

 

 
 
 後はすべて機械つきで、昭和30年以降は機械船の時代でした。渡辺造船に行っていた頃は半分ほどが機械船で、そこで機械のつけ方を覚えていきました。作った船は、べカ舟のほか、ウタセブネ、マキブネ、トアミブネなど。一番大きい船はウタセブネで、数としてはべカ舟を多く作ったそうです。
 コエブネという農家の船を作ることもありましたが、この船の修理が大変であったと云う。何故なら野良で腐っている船を直すことが多く、船を壊すと肥やしが出てきて、臭くて困ったと云います。(目に浮かぶようでイヤですね!)

 ほかに農家に頼まれスイコ(苗代に水を上げる道具)やタブネを作ることもありました。スイコは水が洩らないように工夫して作りました。タブネは稲を田圃から畔道に運ぶために使用するもので、1日もあればできてしまいます。他にスエフロ(家庭用の風呂、ヒノキやカヤで作る)なども作ったと云います。                                  
 
 最後に船を作ったのは、昭和47年でした。戦後は、弟の宇田川彰氏と一緒に仕事をしていましたが、漁業権一部放秦のときに将来を考え、弟の宇田川彰氏を独立させ、彼は宇田川土建を開業しました。 勘兵衛さんも昭和46年の漁業権全面放棄の後、昭和47年に廃業して弟の会社に勤めましたが、昭和60年ごろ体の具合を悪くして会社を退職しました。   
 
 その後新木場の自動車教習所に勤めましたが、しばらく前に退職し、浦安舟大工技術保存会の会長として、技術の保存、広報、伝承に活躍していましたが、現在は会長職を弟の宇田川彰さんに譲っています。

 

 また図面の書き方も教わったそうです。学科では船に関する知識を覚えました。さらに夜には徳育の時間もあり、精神訓話を聞かされましたが、年配の人は、徳育の時間をさぼって町の方へ遊びに行ったりしたと云います。  
 浦安造船に入り道具の使い方など基礎的なことを教わったのは、この講習会が初めてだったと云っています。 
 
 造船講習会から浦安造船に戻り民船部(民間の漁船などを作る部署)
に少年工として配属されました。はじめは最初からやらせてもらえず、船体は先輩の職人が作り、少年工は船の付属品(イタゴとかコべりなど)を取りつける作業を担当しました。少年工同士で釘しめの音を出す練習をやったこともあったそうです。この釘しめの話は後述しましょう。
 
 初めて大きな船を作ったのは、少年工の1人、岩田氏の家の船を作るときでした。親方(渡辺亀吉氏)から「3人でやってみろ」といわれ、試験的に少年工だけで船を作りました。この船は肩幅4尺7寸はどのマキブネでした。マツラを取りつけるときなど1回ではうまくいかず、まわりで見ている先輩たちからは「ずいぶん難しいんだねえ。まだつかねえや、まだ合わねえや」などと冷やかされたことは今でも頭の隅に残っていると云います。
 出来上がった後は、よく出来たなどと考える余裕はなく、「水が入らないか、水がちやんと止まるか」と不安でいっぱいだったと云います。
 
 舟の底板をシキと云います。何枚かの板を張り合わせますが、「すりあわせ」と云う方法で水の進入を防ぎます。この「すりあわせ」については後に述べます。
 戦後は渡辺造船に入り修業を続けました。親方からは施工方法などある程度教わりますが、肝心な部分は教えてはもらえません。前にも述べましたがふなずめんなども作り終わるとすぐに削ってしまいます。昭和29年の26歳のときに独立し、以後昭和47年まで勘兵衛の屋号で仕事を続けました。独立してからは、機械つきでない純粋な和船は1艘しか作らなかったそうです。
 一番最初に作った船が機械船ではなく、「これエンジンつけなくていいの」と改めて船主に聞くくらいでした。船主は「つけなくていい」といったが、1年経たないうちに「改造してくれ」といってきて、エンジンつきに大改造することがあったそうです。

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浦安舟大工技術保存会 P4 

参考文献:1993年 浦安市教育委員会発行「浦安のベカ舟」