もうひとつの浦安物語 P10

 

■漁業権全面放棄
 このようにして浦安の漁民は、自分達の生活圏を脅かされながらも漁業を続けてきました。
 浦安は東京湾の最も奥で旧江戸川の河口に位置し、遠浅の海を漁場として多種の魚類に恵まれ、貝や海藻類の発育にも適していました。この地理的条件を生かし、住民は古くから魚介類や海藻類を採って生活を営んできました。
 しかし、昭和三十年代に入って工場排水や生活排水によって漁場がしだいに汚染されるようになりました。特に前述した本州製紙江戸川工場悪水放流事件以降、京葉工業地帯土地造成のための海面埋め立てなどによって、漁場の環境は急激に悪化し、水産物の水揚げは年々減少の一途をたどりました。

 当時、浦安には漁業協同組合と数多くの漁業同業者組合が組織されていましたが、そうした漁業従事者はしだいに漁業の将来に不安を持つようになり、ついに昭和37年に共同漁業一部と区画漁業権の一部を放棄しました。その後、漁民の熱意と工夫により、新しい漁業技術が取り入れられましたが、ますます進む東京湾の汚染により漁業に見切りをつけた漁民は、昭和46年に漁業権を全面放棄し、800年の伝統を誇る漁業に自ら終止符を打ちました。

 漁業を捨てた大多数の漁民は勤め人、商店主、アパート経営などさまざまな職業に転身していきました。

■ここで元漁師の宇田川博(山桐)さんの話しをしましょう。昭和5年8月25日生まれでした。残念ながら平成20年8月20日で77歳で亡くなりました。故人をしのびながら彼の生い立ちに触れてみます。

 『両親共、地っ子(浦安で生まれ育った)です。誕生前に父親が亡くなったので、父親のことは一切記憶にはありません。何でも父親は売っ人(魚介類を自転車に乗せて行商)をしていたと聞いています。
 母は働きに出ていたので、叔父さんに育てられました。小学校6年の卒業と同時に学徒動員で近くの工場に勤めました。ですから昭和17年で12〜3歳の時分です。
 後日談ですが、卒業証書を貰えなかった話しが出て、60年後に浦安小学校で卒業証書授与式がありました。まさか貰えるとは思ってもいなかったので嬉しかったです。

 終戦までここに勤めました。この時が15歳でした。終戦後はそのままこの工場に勤務することとなりました。4年くらいそこに勤めました。その後、浦安町の「むきみ屋」(貝を剥く工場)に勤め、工場内で貝を運搬したりの仕事をしていました。

 20歳になった時(この時はおじいさんと姉と三人で同居)おじいさんから「浜に行かないか?」と云われ、おじいさんと浜で働き始めました。「浜に行かないか?」とは「漁師にならないか?」と云うことです。おじいさんについて漁の勉強をしました。

 そのうち仕事も覚え仲間4人とはえ縄漁を始めました。ボラ・ダツ・さより・えい・黒鯛・スズキ・ふっこ・ちんちんけ〜ず(黒鯛の子)等、何でも捕ったと云います。はえ縄ですから、エサをつけたはえ縄を海中に流して魚を捕ります。エサは穴じゃこで事前に砂浜で穴じゃこを捕ってから漁に向かいました。
 千葉市の稲毛の沖から、上総(木更津)沖まで行きました。機械船ではなくもちろん手こぎです。大変なことです。漁にでると一週間は帰らず、近くの魚問屋に卸して次の漁に向かいました。寝るのは舟にむしろを敷いて寝ていました。
 舟の大きさは今の打瀬舟程度であったと云いますから、4人で寝るのはちょっと狭かったです。

 そのうち腰たぶ漁とか大巻漁を始めました。「腰たぶ漁」とは浅瀬で漁師が海に入り、籠を腰で引きながら「アサリ」や「ハマグリ」を獲る漁です。「大巻漁」はいくぶん深い漁場で舟の上から行う貝獲り漁です。籠はこの「腰たぶ漁」や「大巻漁」で使用する「腰たぶ籠」や「大巻籠」のことを云ってます。

 その作り方で漁獲量に影響しました。自分でつくれない漁師は上手な漁師に依頼したり、専門で作る職人に頼んで作って貰いました。 手先が器用だったので先輩に教わりながら自分で作りました。最初に作った籠は鉄製で重く、使い勝手も良くなかったので木製のオリジナルな籠を作りはじめました。これは使い勝手も良く、貝も沢山捕れましたのでそのうち仲間内からも依頼され製作しました。当時6〜7千円/1個で売れました。随分多くの籠を作った記憶があります。

 腰たぶ漁や大巻漁をやることを「巻く」と云いました。ですから本来は腰たぶ漁ではなく「腰巻漁」が正しい呼称です。
 腰巻漁は腰まで海水に浸かって籠を腰で引きながら貝をとる漁です。足先で貝を探りながら右に振ったり左に振ったりして漁をして行きます。時々石蟹を足で探りあてることもあり、特別な収穫として嬉しかったです。
 漁は浮き沈みがあり、海が時化て漁に出れないときは食べるものもなくなりました。「宵越しの金は持たない」・・を地で行ってました。こんな時は隣近所が食べ物の貸し借りをして、何とか食いつなぎが出来ました。中には質屋通いをする漁師も多かったです。

 その当時は漁をしながら売っ人もしていました。浅草〜鳥越〜上野〜根岸〜十条まで行きました。週一回は草加と越谷まで行きました。最初は先輩について突っ込み(飛び込み)をしました。
 そのうちお得意さんが出来て、売りにいくと待っていてくれて、それが嬉しかったです。当時は母親が十条に住んでいて、帰りはそこに寄って昼寝をしてから帰宅しました。
 自分で捕った魚介類はもちろん、品数を揃えるため仕入れもして売りに行きました。

 40歳までこの仕事を続けました。ちょうど漁協が漁業権を全面放棄し、漁師は続けられなくなりました。そして漁師に見切りをつけ陸に上がりました。
 さて何をするか・・と思いましたが、原木中山にあった鉄鋼会社が社員を募集していると云うので、仲間4人と面接を受けに行きました。
「小学校しか出ていないので履歴書は書けません」
「じぁ、結構です」・・と履歴書は提出しませんでした。

 ところが私たちはハチマキをして、雪駄を履いて面接に行きましたので、会社の担当者もこれにはビックリしました。
 担当者は「これで不採用にしたらこのガラの良くない連中に何をされるか判らない」・・と云うことで、社長と相談して採用にしてくれました。
 採用されて働き始めたわけですが、この4人の仲間は体力もあるし、自分で云うのも変ですが面倒見もいいし、いやな仕事も文句も云わず働いて・・、と会社の信頼を得ることが出来ました。
 この会社はその後浦安の鉄鋼団地に移転し通勤も楽になったわけですが、若い社員が毎日迎えにくると朝飯を食べさせていました。会社へも女房手作りの魚介類のオカズを持っていき、社員からも随分重宝がられました。
 この会社には68歳まで勤めていました。本来は57歳が定年ですが、年金の関係で会社が配慮してくれて定年延長となりました。

 その後、浦安舟大工技術保存会に入会し、ボランティアとして腰巻籠を作ったり、郷土博物館のイベントの手伝いをしたりしていました』

しかし病に勝てずこの8月に永眠しました。ご冥福を心からお祈りいたします。

笑顔が素敵だった宇田川博さんです。

宇田川さんが製作した籠の模型です。