もうひとつの浦安物語 P11

 

■前号の宇田川博さんに続いて、元漁師の熊川一吉さんの話しをしましょう。

 名前は熊川一吉(屋号 熊豊)さんと云います。生年月日は昭和5年9月1日です。今年78歳になりました。まだまだお元気です。

 本人は一吉、父は豊太郎、祖父は太吉、曾祖父は豊吉といいました。屋号の「熊豊」は曾祖父の豊吉の時代熊川の豊吉、つまり熊豊となったとのだろうと推定しています。ちなみに豊吉は慶応年間の時代、つまり幕末に生きていたと聞いています。

以下、ご本人からの聞き取りです。

『昭和18年浦安小学校を卒業し高等小学校に入学したが、戦争中なので浦安にあって軍用木造船を造っていた「浦安造船所」に徴用されました。
 因みに浦安舟大工技術保存会の勘兵衛こと宇田川信治さんは、当時この造船所に勤めていましたが、お互いに知りませんでした。浦安造船所では舟大工が板と板の間にマキハダを打ったあとに、パテを詰める仕事をしていました。

 昭和20年、終戦と同時にここから解放されましたが、当時漁師をしていた父について浜にでるようになりました。余談ですが父豊太郎さんは身長が不足で徴兵されず、漁師をしていました。一般に戦争中は食べ物が不足していましたが、魚を求める人達が豊太郎宅に押し寄せ、お金の代わりに米とか野菜を持ってきて物々交換をしていたました。従って戦争中は食料には苦労しませんでした。
 また市川市の国府台には陸軍の高射砲隊がありました。ここに魚を供出し始めましたが、そのうちトラックで浦安まで来て魚を受け取りました。このときは食用油や砂糖を持ってきてくれました。
 漁は刺し網を中心に、冬は主に海苔・あさり・ばか貝等を捕っていました。

 当時は多くの漁獲量がありましたが、卸しても価格が安いときはもっぱら「売っ人」をしました。
 朝3時に自転車に魚介を乗せ浦安を出発し東京に向かいました。当時はヤミの取り締まりがあったので、なるべく交番を避け自転車を走らせました。でも今になって考えると、都内では「あ〜さり〜、あさり」と声を出すわけですから、警察も知っていて知らんふりしていたものと思います。庶民の生活の大変さを判っていたのであろうと思います。

 ルートとしては浦安を出て先ず九段下へ行きました。ここから「流し」つまり「あ〜さり〜、あさり」と声を出して街を流して売って行きます。九段下から日本橋蛎殻町〜日本橋芳町(現日本橋人形町)〜日本橋浜町〜浅草橋・・と流しました。朝食用に魚介を買うわけですから、それに間に合う時間帯に流さないと売れなくなるわけで、短時間での勝負となります。浅草橋で魚介が残ると向島〜玉ノ井あたりまで行きました。
 そうこうしているうちに近いところ(近いところと云っても自転車に魚介類を積んで九段下ですから、今考えると大変な商売をしていたと思う)は皆行くようになり、競合してくるわけです。

 そこで今度は池袋まで足を伸ばしました。池袋〜椎名町〜要町〜練馬まで行くようになりました。川越までも行きました。ここは良く売れたそうです。ですが毎日では売れなくなるので、新しい市場を開拓していきます。例をあげると中野〜高円寺〜荻窪方面、目黒〜綱島〜九品仏方面、三河島〜滝野川〜王子方面・・と随分遠くまで行ったものです。時には横浜の野毛山まで行きました。   
 野毛山までは距離にして約45km弱です。片道4時間かかりました。
 一番苦労したのは魚介類を満載した自転車で、渋谷の道玄坂、新宿のなると坂は乗ったままでは上れませんでした。
 売れ残ると「突っ込み」と云って、一軒一軒訪ねて売って行くわけです。中には石橋湛山宅では書生さんが待っていてあさりを買ってくれたそうです。その他高峰美枝子宅、赤尾敏宅でも買ってくれました。

 「売っ人」をしていて一番うれしかったことは流しで売り切った時です。辛かった事と云えば行く途中でパンクしたことです。早朝ですから自転車屋さんはまだ開店しておらず、修理道具を持っていたそうですが、水はないし手は汚れるし慣れないことで苦労しました。
 何と云っても修理に時間がかかり、朝餉の支度に間に合わなくなることは明白で、ほとんど売れ残りました。ほとほと困り果てました。
 またお得意先の八百屋さんでは時々お手伝いをしましたが、そのうちそこの親父さんに気に入られ、店を任せるから・・との話がでました。その上先方は娘さんが跡取りで、そこの親父さんは「うちの娘と一緒にさせて・・」との思いがあったようです。とは云ってもこちらもいろいろ都合があったので丁寧にお断りしました。あの時受けていれば八百屋の親父に収まっていたかも・・です。

 そのうちアサリなどの価格も上昇傾向となり、漁師専門に戻りました。昭和33年、29歳で結婚しました。それから昭和46年、漁業権全面放棄で漁業を廃業するまで浜で働きました。
 そしてその年、41歳で親戚の紹介で船橋市役所に就職しました。ここではごみ焼却場で働きました。クレーンでごみを焼却釜に投入したり、時には煙突の掃除までしました。そのうち収集業務に関わるようになりました。
 ここには定年の60歳まで勤めました。
 その後浦安舟大工技術保存会の発足に合わせ、会員となりボランティア活動に参加するようになりました。小学校とか旧大塚邸での「昔体験」の応援、行徳公民館とか海風の街自治会でのべか舟模型教室の応援等々、少しでも社会のお役に立てば・・と思ってお手伝いしています』

・・とまあ面白い話しがいっぱい詰まっていて飽くことがありません。

 熊豊さんが「売っ人」をしていたことを聞いたのは、次のような事情からでした。
 郷土博物館に居たところ、職員が「あぁ、今日は疲れました!、川越まで行ってきました」と云ったところ、居合わせた熊豊さんが「何で行ってきた?、電車だべ〜、俺なんか週一回自転車で行ったもんだ、電車ぐれ〜で疲れたなんて云うなヨッ」・・・
 「えぇぇぇ、自転車でですか〜!!」
 とまあ、今では考えられないような商売をしていたんですねっ。驚きです。

こんな格好で「売っ人」をしていました。

 下の写真は10年ほど前に、日の出公民館体育館で「青べか物語」の映写会を開催したときのものです。千葉の方からも参加いただき、600人程の参加をいただきました。生涯学習課の協力をいただきました。
 この中で実は熊豊さんに「売っ人」の実演をしてもらいました。今の人達は見たことも聞いたこともない・・、当たり前ですが、私もその通りだったのです。郷土博物館から当時の自転車と籠を借用し、映写会の始まる前に、会場が暗くなったと同時に隅で待機していた熊豊さんが「あ〜さり〜、あさり」と声を出して出てきたものです。
 これには会場のお客様はビックリ!そして知り合いの人に頼んでおき、「おじさ〜ん、アサリちょうだい!」と買い手を務めてもらいました。
 これは大当たりでしたね〜・・・、面白かったです〜!!

「奥さん、最近キレイになったね、父ちゃんに可愛がってもらってんだんべっ」
「あ〜ら、ヤダ〜何で判るの?」
・・とたまにはお客様と冗談をとばしながら・・

「はい、奥さんいつもアリガト!、これはオマケだっ!」
「あ〜ら、いつもありがとうね〜・・

得意の浦安弁で当時のお話を伺いました。

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