もうひとつの浦安物語 P12

 

■前に漁業権放棄について触れましたが、浦安の漁業について詳しく紹介してみます。

<漁業の形態>
 浦安の漁場は、東京湾の一番奥まったところにあり、遠浅の海は魚貝類の繁殖に適し、種々雑多の魚に恵まれていました。
 漁業規模は、外海に見られるような大規模なものはなく、普通同一家族または数人が組んで操業するという零細企業で、漁船は地先海面で操業するところから小さなものでした。
 漁の好景気や不景気は、直ちに町全体の経済に影響し、豊漁が続くと町は活気を呈しますが、不漁が続くと町内はすっかり寂れ、商店の売れゆきも止まってしまいました。

 引網、刺網漁などの漁業利用については、漁業者の自由操業に任せられていましたが、昭和30年頃から殆ど魚は獲れなくなり、漁業は海苔養殖や貝の採取が主体となっていきました。
 海苔養殖は、すべて漁協組合の統制監督の下に行われました。海苔養殖は毎年希望者に申込みをさせ、養殖場の優劣を勘案して海苔柵を組み合わせ、摘銭で海苔柵の行使権を決めました。

 昭和25年の海苔養殖業者は1,328人で、組合員一人当りの海苔柵は13柵でした。これは海苔養殖場を最高度に利用したものですが、一人当り13柵では企業として成りたたないので、資力のある者は、他の組合員から海苔柵の行使権を譲り受けて養殖に従事しました。新たに海苔養殖を希望する者は、組合に加入後3ケ年を経過すると資格が与えられました。

 貝漁場は漁師が自由に操業できるところと、組合監督の下に操業する養殖場に分けられていました。大まきは一隻4〜5人を単位として申込みをさせ、毎年11月中旬から、翌年4月下旬頃まで、大体三日目ごとに出漁させます。
 水産物の水揚額は、海苔が圧倒的に多く、全収入の60〜70%を占めアサリ、ハマグリなどの貝類がこれについでいました。
戦前は漁業を専業とする者が多かったが、昭和30年頃からは漁獲高が減少してきたので、漁業を営むかたわら他に副業を持つ者が多くなったそうです。昭和43年の専業漁家数は423戸であるのに対し、第一種兼業814戸、第二種兼業115戸です。
 また昭和40年以降の漁業就業者の年令構成を見ると、その年によって多少の差はありますが、45歳以下が全体の36%であるのに対し、46歳以上は64%を示し、圧倒的に中高年令層が多いことがわかる。
 これは漁業不振と、沿岸漁業が持つ古い体質から将来に見切りをつけ、他の産業に流出した若年層が多いからです。

<漁業権>
 漁業権とは海面、河川、湖沼などの公共水面の一定区画を限って、漁業を営むことのできる権利です。
 漁業権に基づいて行われる漁業を、免許漁業と云います。免許漁業には、漁具を一定の場所に定置して漁業を営む定置漁業権と、水面の一定区域を画して、養殖を行う区画漁業権のほか、一定水面を共同で利用する共同漁業権の三種があります。
 それぞれの漁業権には免許の適格、優先煩位が規定されますが、共同漁業権については、地先の漁業協同組合にのみ免許されます。免許の存続期問は、原則として共同漁業権が10年で、区画漁業権は5年です。
 免許漁業権は、水面の所有権ではなく、免許された漁葉についてのみの権利であるので、普通同一水面につき二種以上の漁業が設定されています。

昭和31年当時の海苔漁場

浦安市郷土博物館調査報告第三集「のり2ちば海苔いまむかし」より転載