もうひとつの浦安物語 P4

 

<浦安の歴史>
■浦安の生い立ちと地名 
 ところで浦安の歴史は相当古いのです。保元二年(1157年)にはすでに部落が形成されていました。当時は住んでいる人達も少なく、彼らは塩を焼き、魚介類を捕り、田畑を耕して生計を立てていました。
 浦安は東京湾の奥まったところに位置し、江戸川の堆積物で形成された低地であったため、たびたび水害の被害にあったと云われます。
 明治維新後の明治11年に葛飾郡が東葛飾郡と改められ、堀江村と猫実村と当代島村と称するようになりました。

 当代島の名称は鎌倉時代に田中十兵衛がここを開墾し、この土地を当代(現代の意味)に出来た島なので、そのように名付けられたと云われています。

 猫実の名称ですが、最初はなかなか読めません。「ねこじつ、ねこみ・・」とか読んでしまいます。市内に豊受神社があります。創建は保元2年(1157年)と伝えられており、浦安で一番古くにお祀りされた神社です。明治のはじめまでは神明宮社と呼ばれ、「神明さま」の愛称で地元の方に親しまれてきました。
 浦安の地は昔から水害の被害に遭うことが多く、この社も数回の再建と修繕がなされました。現在の社殿は昭和49年に建てられたものです。
 昔はこのへんに堤防がありました。たびたびの水害で地域の人達は大変困っていたそうです。そこでこの堤防に松の木を植え、「この松の木の根を越さぬように・・、根を越さぬよう・・、根越さぬ・・、ねこざね・・」になったと云われています。

 ついでにもうひとつ。市内に海楽と云う町名があります。埋め立て以前はこの辺が海岸線でした。そしてここに海楽園と云う海水浴場がありました。何故海楽園かと云うとここは「貝がえらく得られた・・、貝えらく得ん、かいらくえん・・」と云う具合です。

地名の由来は面白いですね。

■村から町へ
 明治22年の4月に町村制の施行に伴い、この三村が合併して「浦安村」となったのです。この「浦安村」は初代村長の新井甚左衛門が「浦、安かれ・・」として命名したと云われています。尚、浦安村の発足時の人口は5,946人、世帯数は1,040戸でした。
 そして浦安村創設後、順調に発展してきましたが、明治4291日に町制をしきました。これで浦安町になったわけです。この時の人口は8,475人、世帯数は1,580世帯でした。 町域面積は4.43平方kmでした。
 この間、コレラが発生し死者がでたり、大規模な火災が発生したりの不運な出来事等も起こりました。また浦安尋常小学校が創立され授業も始まりました。

 町制が敷かれたときの町域面積を4.43平方kmと記しましたが、埋め立てがはじまり、その後の面積推移を調べてみると次のようになります。
 昭和43年6.77平方km、昭和46年 8.65平方km、 昭和50年11.34平方km昭和53年
13.77平方km昭和54年 15.41平方km昭和55年16.66平方km 昭和56年16.98平方kmで、これが現在の市域面積です。ですから町制施行時の3.8倍になったわけです。 とは云っても県内では最小面積の市です。
 それ以降、明治443月に町役場が竣工しました。同年7月に大津波で多数の死者と、家屋に大きな被害がありました。また大正2年には町にはじめて電灯が敷設されました。ちなみに電話は大正12年でした。水道は昭和11年です。

豊受神社


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豊受神社(カーソルで360度回転可能です)